物語の主人公はボロクタという放浪の男。
ボロクタは
「外敵から守られて物がたくさんあって……心配がなくて……」
という、彼の言葉を借りれば「天国」を捜していた。
そんな時、放浪先で知人であるフルドトと再会。
ボロクタが「天国」を捜していると知ったフルドトは、
「ニワトリを丸かじりしたり、自由に外をブラブラできるのが天国じゃ」
と、今ある自由な暮らしこそが「天国」なのだと主張。
その考えを古いと言うボロクタだったが、フルドトは彼を親類が長老をしているという自分達の村へ誘うのだった。
元々クソ力だったボロクタは村でも有力者となり、毎日仲間たちと狩りへ出かけるようになる。
そんなある日のこと。
山で見た事もない巨大な怪物と遭遇。
敵意はないと感じたボロクタ達に、怪物は尻から土鍋を落とした。
そんな便利な物を自分達に与えてくれるこの怪物をボロクタは、
「ありゃあカミサマじゃねえか」
「こういうものを落として、おれたちを幸せにしてくださるのだ」
と言い、村へ連れて帰ることにする。
最初は怪物に怯えていた長老たちだが、尻から便利な物を排泄することやボロクタの説得によって、その怪物を村のカミにすると決定。
「神の名はブンメイ、あるいはシンポと呼んでもいい」
「おれたちはこれによって、みんなで幸福になるんだ。つまり村は天国になるんだ」
ボロクタの宣言に沸き返る村人たち。
そんな中、1人だけ異を唱える人物がいた。
フルドトである。
「現在のこの自然な生活以外に人間を幸福にするものが、どこにあろうぞ」
だが、フルドトの主張は舞い上がった村人達からはNOを突き付けられて相手にされなかった。
カミサマは土を食べさせると、土器やランプといった便利な物を排泄してくれたが、食べさせないと暴れるという厄介な存在だった。
暴れて村を壊されては困ると、みんなが必死になって堅い土を掘ってはカミサマに献上する。
そんな暮らしが続く中で、やがて村人たちの間に疑問が生まれる。
家の中に便利な道具は増えたものの、そのために働きづめになった現状を嘆き始めたのだ。
「品物は次々に増えるが幸福に感じない」
村人達は長老とボロクタに現状について意見を聞きに行く。
長老は昔と比べて今の富に満足しているらしく、ボロクタに至っては村人たちの主張は
「見解の相違」
だとし、この天国を守るために刀や槍まで作ろうと言い出す。
それだけはやめて欲しいと懇願する村人たちの前に、村を捨てて山で暮らしていたフルドトが現れる。
85歳になるフルドトだったが、山で新鮮な魚や野ねずみを丸かじりする自然の生活のおかげで年齢の割に若々しく、さらには美しく若い妻までも披露。
「(村人たちは)ブンメイという化け物の中毒になってんだ」
カミサマを捨てて自分のところへ来いと話すフルドトに村人達も今度は賛同してみんな行ってしまう。
残ったのは長老とボロクタだけだったが、食い物を要求して吠えるカミサマに長老も
「この天国が恐ろしくなった」
と話して逃げ出してしまい、最後にはボロクタ自身もその天国から逃げ出す。
こうして村には誰もいなくなった……。
また、放浪生活へと戻ったボロクタ。
「結局、人を幸福にし、天国を作ろうと思っていたブンメイは必ずしも人を満足させない。だからといって、あのフルドトのおじさんのように野ねずみを丸かじりする生活が、果たして人を幸福にするだろうか」
彼は幸福を求めて旅を続けるのだった。
「建物や便利な物さえ増えれば幸福になれるというわけでもない」
あっても心にゆとりがない人もいれば、なくても豊かに生きる人だっている。
最後にカミサマから逃げたこの物語の村人達は
「働きづめで物を増やすよりも心のゆとり」
を求めたんでしょうね。
こういった「幸福」をテーマにした物語は水木先生の他の漫画でも見られ、特にネットやスマホの普及で便利になった現代において考えさせられるテーマでもあります。
結局は人それぞれの生きる環境や心の問題なのかなって気はするのですが、我々人間はそれを敏感に感じ取れるほど器用な生き物には作られていないのかもしれません。
この先、多くの物がさらに便利になるだろう未来の私達は一体何を感じ、そして彼ら(村人達)のようには逃げられない立場で何を思うのか。
すでにその答えが出ている人も多いかもしれませんね。
[amazonjs asin=”4063775925″ locale=”JP” title=”怪物マチコミ 他 (水木しげる漫画大全集)”]
・「縄文少年ヨギ」感想
・「不思議な手帖」感想
・「天国」感想
・「未来をのぞく男」感想